蘭学事始 杉田玄白著/緒方富雄訳 目 次  一 蘭学というもの…漢学と蘭学  二 鎖国…南蛮《なんばん》流外科…鎖国とオランダ…オランダ流外科  三 「オランダ流外科」の各流…西流…栗崎流…桂川流…カスパル流  四 鎖国とオランダ通詞《つうじ》…オランダ通詞の発憤  五 吉宗将軍とオランダ書…野呂元丈と青木文蔵とのオランダ語勉強  六 前野良沢  七 『紅毛談《おらんだばなし》』の絶版…オランダ文字  八 良沢とわたし…オランダ文字…大通詞西善三郎…オランダ語  九 オランダもの  十 ヤン・カランスとバブル…大通詞吉雄幸左衛門の門人となる…刺絡《しらく》…ヘイステルの外科書を写す  十一 吉雄幸左衛門と前野良沢…良沢の長崎ゆき  十二 「対話」…平賀源内…カランスと源内  十三 中川淳庵…明和八年…『ターヘル・アナトミア』、『カスパリュス・アナトミア』とわたし  十四 オランダ書翻訳ののぞみ  十五 明和八年三月三日…腑分《ふわけ》のしらせ  十六 明和八年三月四日…良沢と『ターヘル・アナトミア』とわたし  十七 明和八年三月四日…骨が原の腑分  十八 明和八年三月四日…帰り路…『ターヘル・アナトミア』の翻訳を思いたつ  十九 明和八年三月五日…良沢の宅に集まる…『ターヘル・アナトミア』にむかう  二十 翻訳にとりかかる…苦心  二十一 『解体新書』の完成…「蘭学」という名…翻訳書の初め  二十二 『解体新書』のできるまで…同志の人々  二十三 同志の人々…前野良沢…中川淳庵…桂川甫周…わたしの意図  二十四 建部清庵とわたし…蘭学問答…和蘭《オランダ》医事問答  二十五 わたしと翻訳…その心がまえ  二十六 『解体約図』…長崎通詞  二十七 『解体新書』の出版  二十八 蘭学の隆盛…大槻玄沢  二十九 荒井庄十郎  三十  宇田川玄随  三十一 小石元俊  三十二 橋本宗吉  三十三 山村才助  三十四 石井恒右衛門  三十五 桂川甫周  三十六 稲村三伯(海上随鴎)…オランダ辞書(江戸ハルマ)の完成  三十七 宇田川玄真  三十八 大槻玄沢・宇田川玄真…天文台訳官となる  三十九 出藍《しゅつらん》の人々  四十 長崎の通詞の人たち…志築忠次郎…馬場佐十郎  四十一 感銘  四十二 むすび  解説 [#改ページ] 杉田玄白略歴  一七三三〜一八一七年。江戸時代中・後期の蘭学者。名は翼、あざなは子鳳、俗称は玄白、九幸と号した。若狭《わかさ》小浜《おばま》藩の侍医であるが、江戸でうまれ(享保十八年九月十三日)、江戸で教育をうけた人である。父甫仙も若狭藩の医師であった。玄白は、批判力と洞察力のすぐれた人で、家業の外科を大成しようと、シナの古典をあさったがものたらず、独自の日本式外科の確立をくわだてたことがある。一七七一年三月四日(明和八年)、三十九才のとき、前野良沢、中川淳庵等と千住《せんじゅ》の骨《こつ》が原で腑分《ふわけ》を見たのがきっかけで『解体新書』の翻訳刊行(一七七四年)という大事業をやりとげ、それがきっかけで蘭学がうまれた。のち多くの蘭学者が西洋文明を日本へ導入する大きな役目をはたした。玄白は長命で、みんなから蘭学の先達と尊敬され、八十五才、文化十四年四月十七日に江戸でなくなった。 [#改ページ]  一 蘭学というもの…漢学と蘭学  このごろ世間で、「蘭学《らんがく》」ということがしきりにはやっていて、志のある人々は熱心に学び、知識のない人たちはむやみと偉いことのように思っている。  この蘭学の起こりを思いおこしてみると、むかしわたしたちのなかま二、三人で、ふとやり始めたことなのだが、もう五十年に近くなる。いま、これほどまでになろうとはまったく思いもしなかったのに、ふしぎにもさかんになったものである。  漢学《かんがく》のほうでは、むかし遣唐使をシナへつかわしたり、偉い僧を留学させたりして、直接にあちらの国の人について学ばせ、その人たちが帰ってくると、いろいろの階級の人々を教育指導するようにさせたのであるから、だんだんさかんになったのは、もっともなことである。  蘭学のほうでは、そのようなことがまったくなかった。それなのに、このようにさかんになったのは、どういうわけであろうか。  いったい医学は、その教えかたがすべて実地を重んずるので、わかりが早いのか、それともオランダ式の医学というもの自身が目新らしく、いろいろ外国式のすばらしい療法ででもあるように世の人も思っているので、わるがしこい連中がこれを看板にして宣伝し、うまく利益を得ようとするために広まるのであろうか。 [#改ページ]  二 鎖国…南蛮《なんばん》流外科…鎖国とオランダ…オランダ流外科  さて、むかしから今日までの移り変わりをよく考えてみよう。  天正・慶長のころに、西洋人がだんだんとわが国の西のはずれへ船をよこすようになったのは、おもてむきは貿易のためということにしているが、うらでは、下心があってのことであろう。その結果、いろいろの災《わざわ》いが起こったので、徳川の御治世以来それらの国との通商が厳禁された。これは世によく知られていることである。その原因となった邪教《じゃきょう》……キリシタンのことは、わたしの知らぬ「よそごと」であるからいうこともない。ただし、そのころの貿易船に乗ってやってきた医者から伝えてもらった外科の流儀のうちには、世に残っているものもある。これが「南蛮流外科」といわれるものである。  そのころから、オランダ船は通商を許されて、肥前《ひぜん》の平戸《ひらど》へ船をつけていた。外国船禁止になったころでも、このオランダの国だけは、なかまでないというので、ひきつづいて渡来を許されていた。そして、オランダ商館が平戸にたてられた年(慶長十四年・西暦一六〇九年)から三十三年目になって、それまで長崎の出島《でじま》に住んでいた「なんばん人」を追い出して、そのあとへオランダ人を住まわせることとなり、オランダ商館をここに移した。それは寛永十八年(一六四一年)のことである。  それ以来、オランダ船は毎年、長崎の港に来ることになった。それから後、このオランダ船について来る医者で、やはりその外科の療法を伝えたものも多かったそうである。これを「オランダ流外科」というのである。もとより横文字の本を読んで習い覚えたわけでなく、ただその手術を見習い、その処方を聞いて書きとめておいたくらいのことであった。もっとも、こちらにない薬が多いから、病人をとりあつかうのに、代用薬を使うことが多かったであろう。 [#改ページ]  三 「オランダ流外科」の各流…西流…栗崎流…桂川流…カスパル流  そのころ「西流《にしりゅう》」という外科の一家ができた。その家の祖先は、なんばん通詞《つうじ》の西吉兵衛という人で、なんばんの医術を受け伝えて、人にほどこしていたが、なんばん船の入港が禁じられてから後は、オランダ通詞となり、オランダの医術も伝えた。  このように、なんばん流とオランダ流とをかねて、「南蛮和蘭《なんばんおらんだ》両流」と唱えていたのを、世間では「西流」と呼んだそうである。そのころは、こういうことはいたって珍しいことであったから、非常にはやって、その名も高かったからであろう、後には幕府におかかえの医者(官医)として召し出され、名を改めて「玄甫《げんぽ》先生」といわれたそうである。その子の宗春《そうしゅん》といわれた人は、病気がちで、早くなくなったので、家が絶えてしまったそうである。これがわたしの先祖の甫仙《ほせん》というかたの先生にあたる家である。  いまの玄哲《げんてつ》君のおじいさんの玄哲先生も、のちに召し出されて、やはり官医となられたが、この人は玄甫先生の「めい」の続きあいになるということである。  そもそも、この玄甫先生が、初めて西洋流の医学を唱えられたからこそ、幕府にも採用されるようになったのであって、これが、オランダ医学が御用にたった最初である。  また「栗崎《くりさき》流」というのがある。これを唱えた栗崎氏は、なんばん人とのあいのこだという。なんばんのキリシタン邪宗が厳禁となり、なんばん船の来ることも禁じられたが、それ以前は平戸や長崎の地であちらの人たちが日本人といりまじって住み、日本人の妻を持ち、子のあるものもあったので、のちにはこれらのこどももよく調べて、なんばん人の血のまじっているものは、残らず日本から追い出してしまった。その中に栗崎という苗字で、名を「ドウ」という人があった。この人はあちらで大きくなってもキリシタン宗にはいらず、ただその国の医学を学んだだけで、邪宗にはいらないという理由で日本に帰ることを許され、呼び帰されて長崎に住んだ。  この人の外科は非常にじょうずで、大いにはやったので、人々はこれを「栗崎流」と称したそうである。この人の名の「ドウ」というのはオランダ語で「露」ということだそうだ。のちに文字をあてて、「道有《どうう》」と書いたのだという。いま官医になっていられる栗崎君の祖先なのか、また別の家の栗崎氏なのか、くわしいことは知らない。  このほかに「吉田流」「楢林《ならばやし》流」などという外科の家は、いずれも、もとオランダ通詞で、オランダの流儀を学んで開業したのである。 「桂川家」は、いまの代から五代まえに甫筑《ほちく》先生というかたがあって、六代将軍|家宣《いえのぶ》公がまだ藩邸にいて、甲府公といわれたときに召し出された外科の家である。その先生は平戸侯の医者で、嵐山甫安《あらしやまほあん》といわれたそうである。この甫安という人は、殿様のいいつけで、出島の蘭館《らんかん》につとめていたオランダの外科医に預けられて、その術を親しく学ばれたということである。  この桂川家は、オランダの船が平戸へ来るようになって以来ずっと、あちらの国の人と親しく交際することも自由だったそうである。当時はいまのようにきびしくなかったのであろう。甫筑《ほちく》先生はそのころ、まだ若くて門人となり、先生につれられて出島へときどき行かれたけれども、もっぱら嵐山の流を受け伝えられたということである。そのころのオランダの外科医は、ダンネルとアルマンスという人であったと聞いている。  桂川氏は、もとは大和《やまと》の国の人で、森島という名であったが、「嵐山の流れをくむ」という意味から、家名を「桂川」と改められたということである。それで世に「桂川流」と称したわけである。桂川君のおじいさんの甫三というかたは、わたしが若かったときに交際が深かったので、このかたから話をうかがって覚えているのである。  むかしから「カスパル流」という外科がある。寛永二十年(一六四三年)に南部《なんぶ》の山田浦へ漂流したオランダ船があったが、その船員のうちで江戸へ呼び出されたもののなかに、カスパルという外科医があった。幕府では彼を江戸に三、四年とめておいて、その治療法を伝えさせたので、これを学んだものがあった。そういう人たちもだんだん長崎へ送られたということである。正保《しょうほ》のころ、江戸と長崎とにこのカスパルから伝えた療法があったそうである。事情はよくわからないが、後に「カスパル流」と唱えているのがそれであろうか。また別にカスパルという名の外科医がやって来たことがあったかもしれない。  そのほか、長崎に「吉雄《よしお》流」というのがある。その後渡来したオランダ人から受け伝えている治療法もあるので、「吉雄流」といった。  これらの家々には『伝書《でんしょ》』といって、それぞれの家に伝わる治療法を書いたものがある。それを見ると、みな、こう薬・あぶら薬を使う法ばかりで、くわしいことは書いてない。こんなふうに、不完全なものばかりなのであるが、それでもその治療法はシナの外科よりは大いにまさっていたし、また、わが国にむかしから伝わっている外科よりもずっとすぐれていたということはできよう。  これらの書きもののなかで、わたしの見たものに、楢林《ならばやし》家の『金創《きんそう》の書』というものがある。そのなかに、人のからだのなかには「セイヌン」というものがあって、生命に関係のあるたいせつなものであると書いてある。今からみれば、これは「セーニュー」(zenuw)であって、わたしたちが「神経」と意訳したものに当たると思われる。わずかではあるが、これだけでもオランダ医学のことを聞いて書いたものは、この書きものが初めてであろう。 [#改ページ]  四 鎖国とオランダ通詞《つうじ》…オランダ通詞の発憤    徳川御治世の初めのころ、いろいろの事件があって、西洋のことはすべてきびしく禁じられることになり、渡来が許されていたオランダでさえも、その国で使っている横文字をわが国で読み書きすることは禁じられていたので、通詞の連中も、ただオランダ語をかたかなで書きとめるという程度であり、口で覚えていて通弁の用を足していたのである。  こんなありさまで年月がたってしまったが、事情が事情であったので、その間には、横文字の読み書きを習いたいという人も無かったのである。  ところが万事は、その時が来ればおのずからひらけ、整うものなのであろうか。八代将軍|吉宗公《よしむねこう》の御時に、長崎のオランダ通詞の西善三郎・吉雄幸左衛門《よしおこうざえもん》と、もう一人、名は忘れたが、こういう人たちが相談して……これまで通詞の家でいっさいの御用を取り扱っているのに、あちらの文字というものを知らないで、ただ暗記していることばで通弁し、いりこんだ多くの御用をどうやら弁じてつとめているというのでは、どうもあまりに不十分である。どうにかして自分たちだけでも横文字を習い、あちらの国の本を読んでもよいようにお許しを受けてはどうか。そうなれば万事につけ、あちらの事情がはっきりわかって、御用も弁じよくなるであろう。現状のままでは、あちらの国の人にだまされるようなことがあっても、それのつきとめようもない……三人はこういい合わせて、どうかこのことをお許し願いたいと、幕府へ申し出たところ、聞きとどけられ、しごくもっともな理由であるとて、すぐに許可になったということである。これこそ、オランダ人が渡来するようになってから百年余り、横文字を学んだ最初だということである。  こうして横文字を習い覚えることができるようになったので、西善三郎などは、まず『コンストウォールド』という字引をオランダ人から借り受けて、それを三とおりまで書き写したということである。オランダ人もその精力に感じて、その字引をすぐ西氏に与えたそうである。 [#改ページ]  五 吉宗将軍とオランダ書…野呂元丈と青木文蔵とのオランダ語勉強  こういうことなどが、自然と将軍にも聞こえたとみえて、オランダの本というものを今までごらんになったことがないから、なんでも一冊さし出すようにという御希望があったので、何の本であったか、図のはいった本を提出したところ、将軍がごらんになって、これは図だけでも非常に精巧なものである、そのなかに書いてあることが読めたら、きっと役に立つことがあろう、江戸でもだれか学び覚えるがよい、ということになり、初めて御医師の野呂元丈《のろげんじょう》・御儒者の青木文蔵《あおきぶんぞう》の二人にこれを命じられたということである。  これ以来お二人は、このオランダ語の学習を心がけられたのである。しかし毎春一度ずつ将軍に拝礼に来るオランダ人に付き添って来る通詞たちから、短い滞在の間に聞かれることでもあり、お二人ともおいそがしくて、なかなかひまのないことであるから、ゆっくりと学ばれるわけにいかない。それで数年かかって、やっと「ソン」(zon)日、「マーン」(maan)月、「ステルレ」(sterre)星、「ヘーメル」(hemel)天、「アールド」(aard)地、「メンス」(mensch)人、「ダラーカ」(draak)竜、「テイゲル」(tijger)虎、「プロイムボーム」(pruimboom)梅、「バムブース」(bamboes)竹、というくらいのものの名と、オランダ文字二十五字を書き習われた程度にすぎなかった。とにかく、これが江戸でオランダのことを学び初めた最初である。 [#改ページ]  六 前野良沢  さて、わたしの友に、豊前《ぶぜん》の中津侯《なかつこう》の医官で、前野|良沢《りょうたく》という人がある。この人はおさないときに父母を失い、淀侯《よどこう》の医師で伯父に当たる宮田全沢《みやたぜんたく》という人に養われて成人した。  この全沢は博学の人であったが、なかなか変わった人で、好むところがすべて普通の人とは異なっていた。良沢を教育するのにも、やはり、ずいぶん変わっていたそうである。この全沢が良沢に教えていうには、人というものは、世の中からすたれてしまいそうな芸能を学んでおいて、末々までも絶えないようにし、いまは人が捨ててかえりみなくなったようなことをして、世のために、あとあとまで残るようにしなけれはならぬと。  いかにも、良沢という人も生まれつき変わった人で、この全沢の教えにそむかなかった。専門は医業で、吉益東洞《よしますとうどう》の流をくんでつとめていたが、遊芸の方面でも、もう世にすたれていた「一節截《ひとよぎり》」をけいこしてその秘曲をきわめ、またおかしいのは、猿若狂言《さるわかきょうげん》の会があると聞いて、これのけいこに通ったこともあった。  このように奇を好む性質であったから、青木氏の門にはいって、オランダの文字と、少しはオランダのことばも習ったのである。  良沢が後に著《あら》わした『蘭訳筌《らんやくせん》』という本を見ると、ずっと以前のことらしいが、同じ藩の坂江鴎《さかこうおう》という隠士《いんし》が、あるときオランダ語の本の断片を良沢に見せて、これは意味のわかるものなのだろうかといった。  それで、良沢はこれを借り受けて、つくづく思った。いくら国がちがい、ことばがちがうといっても、同じく人のすることで、自分にできないものがあろうかと。そこで良沢はこれを読んでみようと志したが、とりつきようもないので、くやしく思っていた。  そのうちにふと、青木先生がこの学に通じていられると聞いて、ついにその門にはいってこれを学び、青木先生の『和蘭文字略考《オランダもじりゃくこう》』などという書をさずかり、先生が学んで知っていられるところを、うかがいつくしてしまったということである。  これは青木先生が長崎から江戸へ帰られて後のことと聞いた。先生が長崎へ行かれたのは延享《えんきょう》のころであろうと思われる。良沢が入門したのは、宝暦《ほうれき》の末か、明和の初めで、彼が四十才余りのときであったろうか。これが医者で、しかも官職にいない普通の人がオランダ語を学んだ初めであろう。 [#改ページ]  七 『紅毛談《おらんだばなし》』の絶版…オランダ文字  しかしそのころは、とりわけ普通の人がみだりに横文字をとりあつかうことは遠慮していた。たとえば、そのころ本草家《ほんぞうか》と呼ばれていた後藤梨春《ごとうりしゅん》という人は、オランダのことについて見聞きしたことを書きあつめて、『紅毛談《おらんだばなし》』というかな書きの小さな本を著わして出版したところ、そのなかにオランダ文字二十五字がほり入れてあったので、どちらからかとがめをうけて絶版になったこともある。  それからあとのことだが、山形侯の医師の安富奇磧《やすとみきせき》という人が麹町《こうじまち》に住んでいた。この人は長崎に遊学して、そこでオランダ文字二十五字を習い、その文字で「いろは」四十七文字を書いたのを借りて帰り、人に誇って、オランダの本も読めるかのようにいいふらしていたのを、わたしもめずらしいことだと思ったものである。わたしと同じ藩の中川淳庵《なかがわじゅんあん》などは、やはり麹町に住んでいたので、この人からオランダ文字を初めて習ったのである。 [#改ページ]  八 良沢とわたし…オランダ文字…大通詞西善三郎…オランダ語  わたしは、良沢がかねがねオランダのことに関心を持っていたことを知らなかった。ところが明和三年のことであった。  その年の春、いつものようにオランダ人が江戸へ拝礼にやって来たとき、ある日、良沢がわたしの宅へおとずれてきた。これからどちらへ、とたずねると、きょうはオランダ人の宿へ行って、通詞に会ってオランダのことを聞き、つごうによってはオランダ語などもたずねようと思っているとのことである。  わたしはそのころまだ年も若くて、血気にはやりやすく、何でもやってみたくなるころであったから、どうかわたしも連れて行っていただきたい、わたしもいっしょにたずねてみたいからというと、良沢は、それはやすいことだといって、いっしょに、オランダ人の泊まっている宿へ行った。  その年は、大通詞としては西善三郎という人が来ていた。良沢の引き合わせで、わたしは、オランダ語を学びたいという希望を申しのべたところ、善三郎は聞いて、それはおやめなさいという。  あちらのことばを習って理解することはむずかしいことです。たとえば湯水や酒などを「飲む」ということをたずねるには、最初に手まねでたずねるよりしかたありません。「酒を飲む」ということを問うには、まず茶わんでも持ち上げて、これに注ぐまねをし、それに口をつけて、「これは?」と問うと、うなずいて「デリンキ」(drink)と教えてくれます。これが「飲む」ことなのです。  さて、上戸《じょうご》と下戸《げこ》とを問うには、手まねでたずねようもありません。こんなのは、たくさん飲むのと少し飲むのとで区別がわかります。しかし酒を多く飲んでも、酒の好きでない人があるし、少なく飲んでも好きな人があります。これは心もちのうえのことですから、どうにもしかたがありません。  さて、その「すきこのむ」ということは、「アーンテレッケン」(aantrekken)というのです。自分は通詞の家に生まれ、おさないときから通弁《つうべん》には慣れておりながら、このことばの意味を知らずにいたところ、やっと五十才になって、こんどの拝礼の道中で初めてわかりました。「アーン」とはもと「向かう」という意味、「テレッケン」とは「引く」ことです。「向かい引く」というのは、「むこうのものを手まえへ引き寄せる」のです。酒を好む上戸も、むこうのものを手まえに引きたく思うのです。すなわち、「好む」の意味になるのです。また、故郷を思うのもこういいます。これもまた、故郷を手もとへ引き寄せたいと思う心があるからです。  あちらのことばをつきすすんで習うのは、こんなに面倒なもので、わたしのようにつねにオランダ人に接していてさえ、たやすくはわかりにくいのです。ましてや、江戸などにいて学ぼうと思われるのは、不可能なことです。野呂・青木の両先生なども、そのための御用で年々この宿へおこしになり、ひとかたならず御勉強ですが、なかなか、はかばかしく御理解ができないようです。あなたがたもおやめになったほうがよいでしょう。……と忠告した。  これを良沢はどう聞いたか知らないが、わたしはせっかちなたちなので、その説をもっともと聞いて、そんなに面倒なものをやりとげる根気はないし、そんなことでいたずらに日月を費すのは無益なことだと思い、無理してまで学ぶつもりもなかったので、そのまま帰ったのである。 [#改ページ]  九 オランダもの  そのころから、世の人はオランダの国から渡って来たものをなんとなく珍重し、すべて舶来のめずらしい器《うつわ》などを好み、すこし好事家《こうずか》といわれるような人は、多少とも集めて愛好しないものはなかった。  ことに、もとの相良侯《さがらこう》、田沼意次《たぬまおきつぐ》が老中として政治をとっておられたころで、世のなかが非常にはでな時代であったから、 「ウェールガラス」(weerglas)天気験器《てんきけんき》、 「テルモメートル」(thermometer)寒暖験器《かんだんけんき》、 「ドンドルガラス」(donderglas)震雷験器《しんらいけんき》、 「ホクトメートル」(vochtmeter)水液軽重清濁験器《すいえきけいじゅうせいだくけんき》、 「ドンクルカームル」(donkerkamer)暗室写真鏡、 「トーフルランターレン」(tooverlantaren)現妖鏡《げんようきょう》、 「ソンガラス」(zonglas)観日玉《かんじつぎょく》、 「ループル」(roeper)呼遠筒《こえんとう》、  というようないろいろの器がオランダ船で渡って来たし、そのほかいろいろの時計・千里鏡・ガラス細工物の類など、ほとんど無数であった。人々はその精巧なのに感心し、その原理の微妙なのに感服して、毎春拝礼のオランダ人が江戸に滞在している間は、その宿へ自然と人がおびただしく集まるようになった。 [#改ページ]  十 ヤン・カランスとバブル…大通詞吉雄幸左衛門の門人となる…刺絡《しらく》…ヘイステルの外科書を写す  何年のことか忘れたが、明和四年か五年のころであろう。カピタンとしてはヤン・カランス(Jan Crans)、外科医としてバブル(George Rudolf Bauer)が江戸へ来たことがあった。  このカランスは博学の人であり、バブルは外科がうまかったそうである。大通詞の吉雄幸左衛門《よしおこうざえもん》(のちに幸作、号を耕牛といった)はもっぱらこのバブルを先生にしたという。幸左衛門は外科がうまいというので名が高く、西国・中国あたりの人が長崎へ行って、その門にはいるものがいたって多かった。  このカランスとバブルとが江戸へ来た年にも、幸左衛門が付き添って来ていた。わたしは彼についてこのようなことを伝え聞いたから、すぐ幸左衛門の門人になり、その術を学んだ。こういうわけで、わたしは毎日かれの宿へ通った。  ある日バブルが、川原元伯《かわはらげんぱく》という医学生の舌疽《ぜっそ》を治療し、そして刺絡《しらく》の術をほどこすのをみた。それは実に手にいったものであった。血のとびだす距離をあらかじめ考えて、この血をうける器をよほど引きはなしておいたところ、ほとばしった血はちょうどその中へはいった。これが江戸で刺絡をした初めである。  そのころは、さきにもいった通り、わたしは年も若く、げんきはあり、かれらの滞在中は、おこたらず宿へ通っていた。  あるとき幸左衛門は、一冊のめずらしい本を出してわたしに見せながら、これは去年初めて輸入された、ヘイステル(Laurens Heister)という人の『シュルゼイン』(外科治術)という書であるが、自分はどうしてもこれがほしかったので、境樽《さかいだる》二十ちょうと交換した、と語られた。  これを開いてみても、書いてあることは一字一行も読むことはできないけれど、その図は和漢の書のとは大いにちがって、非常に精巧で、これを見ているだけでも心がひらけそうである。それでわたしはその本をしばらく借り受けて、せめて図だけでも写しておこうと、夜を日についで写し、彼の滞在中に写し終わった。このために、あるときは夜どおしをして、あけがたに及んだこともあった。 [#改ページ]  十一 吉雄幸左衛門と前野良沢…良沢の長崎ゆき  また、年はわすれたが、こんなこともあった。  ある春、かの幸左衛門がやはりオランダ人に付き添って江戸へ来たときのことである。  豊前中津藩《ぶぜんなかつはん》の御邸《おやしき》のなかで、奥平昌鹿《おくだいらまさか》侯の御母君が御座敷で臑《すね》の骨折をなされたということがあった。身分の高い人であるから、大さわぎで、かれこれと医師を招かれたが、さいわいに吉雄幸左衛門が江戸にいあわせたので、すぐにお招きになって、療治を命ぜられたところ、順調におなおりになった。このとき前野良沢が御手医師のことゆえ、いろいろ交渉を命ぜられたので、そのために幸左衛門とちかづきになった。これなども、蘭学が世にひらけるきっかけの一つということができるであろう。  そののち良沢は主君のお供で中津へ行ったとき、殿様にお願いして長崎へ行き、百日ばかり滞在し、もっぱら吉雄・楢林《ならばやし》らにしたがって、昼夜をわかたず精いっぱいにオランダ語を習い、さきに青木先生から学んだ『類語』と題した本に出ていることばをもとにして復習訂正し、これに付け足してやっと七百語余りを習い、オランダ文字の字体・文章などのこともあらまし聞き写して持ち帰ったことがあった。このときオランダ語の本も少しは求めて帰った。これが、外科修行のためでなく、オランダ語を学ぶために長崎へ行った人の初めである。 [#改ページ]  十二 「対話」…平賀源内…カランスと源内  オランダが、医術やいろいろの技芸も発達している国であるということがようやく世に知れわたり、世の人もその影響を受けてきた。このころから、オランダ人が江戸へ来るたびに、もっぱら官医の志ある人々は、毎年対話ということを願い出てその宿に行き、治療法・処方のことなどをたずね、また天文家の人も、同じくそれぞれ自分の専門のことを問いただした。  当時はその人々の門人なら、いっしょに連れて行くことも自由であった。それで、なかにはその人たちの門人だといって出入りした人もあった。長崎では規則があって、みだりに彼らの宿への出入りはできないのであるが、江戸のほうは、しばらくの間のことであるから、自然にかまいもしないというありさまであった。  そのころ、平賀源内《ひらがげんない》という浪人があった。この人の専門は本草家《ほんぞうか》で、生まれつき理論にさとく、才能もすぐれていて、ちょうど当時の気風に適した生まれの人であった。何年のことであったか、うえに述べたカランスがカピタンとして江戸へ来たときのことである。  ある日、彼らの宿に人が集まって、さかもりがあったとき、源内もその席にいた。そのときカランスは、たわむれに、お金をいれる袋をひとつ出して、この袋の口をあけてごらんなさい、あけた人にあげましょう、という。その口は「智恵《ちえ》の輪《わ》」のしかけになっている。  客はこれをつぎつぎにまわして、いろいろと工夫するのだが、だれも開くことができない。とうとう座の末にいた源内の番になった。源内はこれを手に取ってしばらく考えていたが、すぐに口を開いてみせた。一同はいうまでもなく、カランスもその才のするどいのに感心して、すぐにその袋を源内に与えた。  こんなことがあってからは、カランスと源内との親しみは深くなり、源内はその後はたびたび宿へ行って博物のことをたずねた。  またある日、カランスはひとつの碁石《ごいし》のような形の「スランガステーン」というものを出して、源内に見せた。源内はこれを見て、その効能をたずねて帰り、あくる日別に新らしく一個つくって持って行って、カランスに見せた。カランスはこれを見て、これはきのう見せたものと同じ品だといった。そこで源内は、あなたがお見せになったものは、あなたのお国の産物か、それとも外国で求められたものか、とたずねると、カランスは、インドのセイロンというところで求めて来たものであると答えた。  源内はまた、その国のどんな場所から産するのかとたずねると、カランスが答えていうには、その国で言い伝えているところでは、大蛇の頭の中から出る石だということだ。源内は、そんなことはないでしょう。これは竜の骨でつくったものでしょうという。カランスはこれを聞いて、竜などというものは実在しないものである。どうしてその骨からつくることができるかという。  そこで源内は、自分の故郷の讃岐《さぬき》の小豆島《しょうどしま》から出た、大きな竜の歯につづいている竜の骨を出して見せて、これが竜骨である。『本草綱目《ほんぞうこうもく》』というシナの本に、蛇は皮をかえ、竜は骨をかえると説いている。わたしがお見せしたスランガステーンは、この竜の骨でつくったものであるといった。  カランスはこれを聞いて大いにおどろき、ますます源内の奇才に感じた。そしてカランスは『本草綱目』を買い、竜骨を源内からもらって帰った。カランスはその返礼として、ヨンストンスの『禽獣譜《きんじゅうふ》』、ドドネウスの『生植本草《せいしょくほんぞう》』、アンボイスの『貝譜《かいふ》』などというような博物家のためになる書物を贈った。  もちろんこれらのことは、オランダ語を直接に話して弁じたのではなく、付き添った内通詞部屋付《ないつうじへやつき》といったような人が通弁したのであって、一言一句通じたわけではない。  源内は、そののち長崎へ行ってオランダの本や器なども求めて来て、またエレキテルといぅふしぎな器械を手に入れて江戸に帰り、その働きのことも考えて、多くの人をおどろかした。 [#改ページ]  十三 中川淳庵…明和八年…『ターヘル・アナトミア』『カスパリュス・アナトミア』とわたし  世のなかは、こんなふうで、西洋のことによく通じているという人もなかったが、そうかといって、ただ何となく西洋のことを遠慮することもないようになった。オランダの本などを持つことが許されているというわけでもないのだが、ときどきは持っている人もあるというふうに移り変わってきた。  わたしと同じ藩の医師|中川淳庵《なかがわじゅんあん》は、本草がとても好きで、オランダの博物の学も学びたい志があって、田村藍水《たむららんすい》・田村西湖《たむらせいこ》先生などとも同志で、毎春江戸へ来るオランダ通詞たちともゆききしていた。  明和八年|辛卯《かのとう》(一七七一年)の春のことである。淳庵がオランダ人の宿へ行ったところ、『ターヘル・アナトミア』と『カスパリュス・アナトミア』という、からだの内部の構造を図説した本を二冊出してきて、希望者があればゆずろうというものがあるというので、それを持って帰って、わたしに見せた。もとより一字も読むことはできないが、内臓の構造、骨格の具合など、これまで本で見たり、耳で聞いたりしているところとは大いにちがっている。これはきっと実地に見て図説したものにちがいない。そうとわかると、わたしは、何とかしてほしいものだと思った。そのうえ、わたしの家も、もともとオランダ流の外科を唱えているのだから、せめてこの本を本箱のなかにでも備えておきたいものだと思った。  しかし、そのころは家もはなはだ貧しくて、これを買うだけの力がなかったので、同じ藩の太夫《たゆう》である岡新左衛門《おかしんざえもん》という人のところへ持って行って、これこれのわけでこのオランダの本を買いたいのですが、買うだけの力が足りなくて、どうにもならないのです、とうちあけた。  新左衛門はこれを聞いて、それは買っておいて役に立つものであるか、もしそうならば、代価はお上《かみ》からくださるようにとりはからおうといわれた。そのとき、わたしは、たしかにこうという目あてなどはありませんが、なんとしてでも役に立つものにしてお目にかけましょうと答えた。かたわらに倉《くら》小左衛門(のちに青野と改めた)という人がいたが、この人も、それはぜひ手に入れてやっておあげなさい。杉田氏はこれをむだにする人ではありませんと、ことばを添えてくれた。  こうして、きわめてたやすく希望がかなって、本が手にはいった。これが、わたしにオランダの本が手にはいった最初である。 [#改ページ]  十四 オランダ書翻訳ののぞみ  かねて、わたしは平賀源内などに会うたびに、よく話し合ったことであったが、だんだんと見聞すればするほど、オランダの実地研究については感心することばかりである。  もしもオランダの本を直接に日本語に翻訳したら、ずいぶん利益をうるにちがいない。ところがこれまでにそれをやろうと思い立った人のないのは口おしいことだ。なんとかこの道をひらく方法はないものだろうか。江戸などではとてもできぬことだから、長崎の通詞にでも頼んで読みわけさせたいものだ。一冊でもできあがったら、国のための大きな益になるだろうにと、それのできないのを、がっかりしてためいきをつくのは毎度のことであった。しかし何ともしかたがないので、むなしくなげくばかりであった。 [#改ページ]  十五 明和八年三月三日…腑分《ふわけ》のしらせ  そういうやさきに、ふしぎにもオランダの解剖《かいぼう》の本が手にはいったのであるから、わたしは、なによりもまずその図を実物と照らし合わせてみたいものだと思チていた。ところが、この春、この本が手にはいったということは、ふしぎといおうか、妙といおうか、実はこの学のひらける時期がやってきたのであろう。  三月三日の夜のことである。当時の町奉行、曲淵甲斐守《まがりふちかいのかみ》殿の家来の得能万兵衛《とくのうまんべえ》という人から手紙がとどいて、明日|手医師《ていし》のなにがしというものが、千住《せんじゅ》の骨《こつ》が原《はら》で腑分《ふわけ》するということですから、お望みならば、そちらへおいでになるようにというしらせである。  かねてわたしのなかまの小杉玄適《こすぎげんてき》というものが、まえに京都で山脇東洋《やまわきとうよう》先生の門人になって勉強していたとき、先生の発起で「ふわけ」があったので、この人もついて行って、したしく見たところ、古人の諸説はみなうそで、信じられないことばかりであった。むかし九臓と称したものをいま五臓六腑などと区別しているが、これは後の人のまちがいであるという話なども聞いていた。そのとき東洋先生は『臓志《ぞうし》』という本を出された。わたしは東洋先生の本も見ていたことであるし、よいおりがあれば、自分でも解剖を見たいものだと思っていたところである。  そこへちょうどオランダの解剖の本が初めて手にはいったのであるから、いまこそ実地に照らし合わせて、いずれが本当かを自分でためすことができるわけでうれしい。これは、ひとかたならぬ幸運の時期がやってきたものだと、わたしの心はもうそちらへ行くことでいっぱいで、ただうきうきするばかりであった。  さて、このようなしあわせな機会は、自分ひとりでしめるべきでない。友だちのうちでも専門の業に熱心な同志の人々へは知らせてやって、これをいっしょに見て、仕事の益はたがいに分けたいものだと考え、まずなかまの中川淳庵をはじめ、誰彼に知らせた。れいの前野良沢にも知らせてやった。  良沢はわたしより十ばかり年上で、わたしより先輩であったので、おたがいに知り合いではあったが、いつもはゆききもまれで、つきあいも少なかった。しかし医学のことに熱心であることは、たがいによくわかっているあいだがらであるから、この場合もらすことはできない人である。  何はともあれ、早く知らせたく思ったが、なにしろもう時がさしせまっている。そのうえ、このころ、ちょうどオランダ人が江戸に滞在していて、この夜もわたしはその宿にいたので、帰って来たのが夜おそくであった。にわかに知らせる方法もない。  どうしようかと考えたが、ふと思いついて、まず良沢に手紙を書き、これを持って知人のところへ立ち寄り、相談の末、本石《ほんごく》町の木戸のそばにいた辻まちのかごかきをやとい、この手紙を良沢の宅へおいたままで帰れといって持たせてやった。手紙には、これこれのことがあるから、御希望ならば、朝早く浅草の三谷《さんや》町出口の茶屋までおこしください、わたしもそこへ行って、待ち合わせましょうとしたためた。 [#改ページ]  十六 明和八年三月四日…良沢と『ターヘル・アナトミア』とわたし  あくる朝、はやく支度を整えて、約束の茶屋へ行くと、良沢も来あわせているし、そのほかの友だちもみな集まっていて、わたしを出迎えた。  その時である。良沢は一冊のオランダの本をふところから出して、開いて見せていうには、これは『ターヘル・アナトミア』というオランダ語の解剖の本である。自分が先年長崎へ行ったときに買って帰り、持っているのであると。  これを見ると、わたしがこの間手に入れて、きょう持って来たオランダの本とまったく同じ本である。版まで同じである。これはまことに奇遇だと、おたがいに手をうって感激しあった。  さて良沢は、長崎遊学中にあちらで覚えたのだがといって、ページを開き、これは「ロング」(long)といって肺、これは「ハルト」(hart)といって心臓、この「マーグ」(maag)というのは胃、「ミルト」(milt)というのは脾臓《ひぞう》であると指さして教えた。しかも、それらはシナの説をといた本にある図とは似てもつかぬものなので、直接に見ないうちは、だれも心のなかでは、どうであろうかと思ったことであった。 [#改ページ]  十七 明和八年三月四日…骨が原の腑分  これから、みなうち連れて、骨が原の腑分《ふわけ》を見る予定の場所へ着いた。  この日のお仕置《しおき》の死体は、五十才ばかりの女で、大罪を犯したものだそうである。京都の生まれで、あだ名を青茶婆《あおちゃばば》と呼ばれたという。さて腑分の仕事は虎松《とらまつ》というのが巧みだというので、かねて約束しておいて、この日もこの男にさせることに決めてあったところ、急に病気で、その祖父だという老人で、年は九十才だという男が代わりに出た。丈夫な老人であった。かれは若いときから腑分はたびたび手がけていて、数人はしたことがあると語った。それまでの腑分というのは、こういう人たちまかせで、その連中がこれは肺臓ですと教え、これは肝臓、これが腎臓ですと、切り開いて見せるのであって、それを見に行った人々は、ただ見ただけで帰り、われわれは直接に内臓を見きわめたといっていたまでのことであったようである。  もとより内臓にその名が書きしるしてあるわけでないから、彼らがさし示すものを見て「ああそうか」と合点《がてん》するというのが、そのころまでのならわしであったそうである。  この日も、この老人がいろいろあれこれとさし示して、心臓・肝臓・胆嚢《たんのう》・胃、そのほかに、名のついていないものをさして、これの名は知りませんが、自分が若いときから手がけた数人のどの腹の中を見ても、ここにこんなものがあります。あそこにこんなものがありますといって見せた。図と照らし合わせて考えると、あとではっきりわかったのであったが、動脈と静脈の二本の幹や、副腎《ふくじん》などであった。老人はまた、今まで腑分のたびごとに医者の方にいろいろ見せたけれども、だれ一人それは何、これは何と疑われたお方もありませんといった。  これをいちいち、良沢とわたしが二人とも持って行ったオランダの図と照らし合わせてみたところ、ひとつとしてその図とちがっていない。古い医学の本に説いている、肺の六葉両耳《ろくようりょうじ》、肝の左三葉右四葉《ひだりさんようみぎしよう》などというような区別もなく、腸や胃の位置も形も、むかしの説とは大いにちがう。  官医の岡田養仙《おかだようせん》、藤本立泉《ふじもとりっせん》のお二人などは、そのころまで七、八度も腑分されたそうであるが、みなむかしの説とちがっているので、そのたびごとに疑問が解けず、異常と思われたものを写しておかれた。そして、シナ人と外国人とでちがいがあるのであろうか、などと書かれたものを見たこともあった。  さてその日の「腑分《ふわけ》」も終わり、とてものことに骨の形も見ようと、刑場に野ざらしになっている骨などを拾って、たくさん見たが、今までの古い説とはちがっていて、すべてオランダの図とは少しもちがっていない。これにはみなおどろいてしまった。 [#改ページ]  十八 明和八年三月四日…帰り路…『ターヘル・アナトミア』の翻訳を思いたつ  帰り路は、良沢と淳庵とわたしとがいっしょであった。われわれは途中でたがいに語り合った。さてさてきょうの実地検分は、いちいちおどろきいった。それをこれまで気がつかなかったことがはずかしい。いやしくも医術でたがいに殿様に仕える身でありながら、そのもとになるわれわれのからだのほんとうの構造も知らずに、いままで一日一日とこの業をつとめてきたのは、面目もないしだいである。なんとかして、きょうの体験に基づいて、おおよそでもからだのほんとうのことをわきまえて医を行なえば、この業で身を立てていることのもうしわけにもなろう。  こういって、ともどもにためいきをついた。良沢も実にもっとも千万同感であるといった。そのときわたしがいった。  この『ターヘル・アナトミア』の一冊でも、なんとかして新しく翻訳したならば、からだの内外のこともよくわかり今日の治療のうえに大きな益があろう。なんとかして通詞の手を借りずに、読みわけたいものである。  こういうと良沢は、自分はかねがねオランダの本を読みたいものだと願っているのだが、これと志を同じくするいい友がない。それをいつもなげかわしく思って日を送っていた。みなさんがいよいよ御希望ならば、自分は先年長崎へも行ったし、オランダ語も少しは覚えているから、これを種にして、いっしょに読み始めようではないかという。  これを聞いたわたしは、それはなによりうれしいことである。同志で力を合わせてくだされば、わたしたちもしっかりと志を立てて、ひとがんばりやってみましょうと答えた。  良沢はこれを聞いて非常に喜んだ。それでは「善は急げ」ということわざもあるから、すぐに明日わたしの宅へ集まっていただきたい、なんとかくふうもあるだろう、ということで、しっかりと約束して、その日は別れ、おのおの宿へ帰った。 [#改ページ]  十九 明和八年三月五日…良沢の宅に集まる…『ターヘル・アナトミア』にむかう  そのあくる日、みな良沢の宅に集まった。そしてきのうのことを語り合いながら、まず、かの『ターヘル・アナトミア』の本にむかった。  ところが、まるで、「ろ」や「かじ」のない船が大海に乗り出したように、ぼうっとして寄りつくところもなく、ただあきれにあきれているばかりであった。  しかし、良沢はかねてからこのオランダ語のことを心がけ、長崎まで行って、単語のことや、文章のつづきあいのことも少しは聞き覚え、聞き習った人であり、年もわたしなどより十も上の先輩であったから、この良沢をなかまの主とさだめ、また先生とも仰ぐこととした。なにしろ不意に思い立ったことであるから、わたしは当時まだオランダ文字二十五字さえ習ってもいないのに、だんだんと文字を覚えて、またいろいろなことばも習っていったのである。 [#改ページ]  二十 翻訳にとりかかる…苦心  さて、この『ターヘル・アナトミア』を、どんな方法で読んで、原稿を書いていこうか、われわれはこれを相談した。からだの中の構造のことは、初めからは、とてもわからないであろう。  この本の最初に全身の前向き、後向きの図があるが、これはからだの表面のことであり、その名はみなわかっているのであるから、この図と説明のしるしとを照らし合わせて考えるのが、とりつきやすいであろう。これが図の初めでもあるから、これからまず始めようということに決めた。こうしてできたのが『解体新書《かいたいしんしょ》』の「形体名目篇《けいたいめいもくへん》」なのである。  ところが、そのころは「デ」(de)とか、「ヘット」(het)とか、また「アルス」(als)、「ウエルケ」(welke)などの助辞《じょじ》のたぐいも、何が何やらはっきりわからないものが多く、少しずつは覚えていることばがあっても、あとさきのことは一向《いっこう》わからないことばかりである。  たとえば、「眉《ウエインブラーウ》というものは目の上に生えた毛である」というような一句なども、意味がぼんやりしていて、長い春の一日かかってもわからない。  こんなふうに日がくれるまで考えつめ、たがいににらみあって、わずか一、二寸ばりの長さの文章、一行の文章が、それもわかるとはきまらなかったのである。  またある日、「鼻」のところで、鼻は「フルヘッヘンド」しているものであると書いてあるところにきた。ところがこのことばがわからない。これはどういうことだろうと、みなで考え合ったが、わからなくて、どうにもならない。もちろんそのころは『ウォールデンブック』(字引)というものはない。ただ良沢が長崎から買って帰った簡単な小さな本があったので、それを見たところ、「フルヘッヘンド」の説明に、「木の枝を切り取れば、そのあとがフルヘッヘンドし、また庭をはけば、ちりや土が集まってフルヘッヘンドする」というような意味のことが読めてきた。これはどういうことであろうと、いつものように、みなでこじつけて考えてみるが、それでもわからない。  そのときわたしは思った。木の枝を切ったあとがなおると、うず高くなるし、庭をはいてちりや土が集まれば、これもうず高くなる。鼻は顔のまん中にあって、うず高くなっているものであるから、「フルヘッヘンド」は「うずたかい」ということであろう。だからこの語は「堆《たい》」と訳してはどうだろうと。  一同はこれを聞いて、いかにもそのとおりだ、「堆」と訳せば当たるだろうということで、そう決めた。このときのうれしさは何にたとえようもなく、世にも尊い宝玉でも手に入れたようなここちがした。こんなふうにおしはかっては訳語を決めたのである。そのうちには、その数もだんだんふえていったわけで、こうして、良沢がそれまでに覚えていた訳語の覚え書を増補していったのである。  そのなかには、「シンネン」(zinnen)(精神)などということばが出てきたりして、まるで見当がつかないことも多かった。そんなときは、これらもそのうちにはわかるときもあろう、とりあえずしるしをつけておこうというので、丸のなかに十文字を書いておいた。そんなわけで、そのころ、知らぬことを「くつわ十文字」と名付けていた。  会合のたびごとに、いろいろと相談し、考えてみてもわからないことがあると、苦しさのあまり、「それもまたくつわ十文字、くつわ十文字」といったものである。しかし「為《な》すべきことはもとより人にあり、成《な》るべきは天にあり」ということわざのように、きっとなるにちがいないと信じて、一カ月に六、七回集まって、このように思いをこらし、精力を費やして、苦心したのである。  こうして、きめた日にはなまけず、必ずみんな集まって、相談をして読み合っていったところ、まことに「くらくないものは心」とやらいうとおりで、およそ一年余り過ぎると、訳語の数もようやくふえ、読むにつれて、オランダの国の事情も自然にわかるようになり、あとになると、文章・文句のまばらなところは、一日に十行も、それ以上も、たいして苦心をしないでもわかるようになった。  もっとも、毎春江戸へくる通詞たちにたずねたこともあるし、その間には解剖などもあり、また、けものを解剖して照らし合わせたことも、たびたびあった。 [#改ページ]  二十一 『解体新書』の完成…「蘭学」という名…翻訳書の初め  この会合をおこたらずにつとめているうちに、だんだん同志の人もふえて、集まってきた。しかし、めいめいの志すところがあって、同じではなかった。  わたしは、前に述べたように、あちらの国の解剖の本を手に入れて、直接に実地とひきあわせ、いままでの東洋の説と非常なちがいのあることをつきとめて、おどろきもし感心もし、なんとかして、これだけでもはっきりさせて、治療の実地に役に立てて、世の医者の仕事にも啓発されるところがあるように、この一冊を一日も早くそういう用に立つようにしてみたいというのが目的であったから、ほかに望むところもなく、一日の会合でわかったところは、その夜訳して原稿をつくっていった。それにつけて、訳し方をいろいろくふうし、考え直したことはいうまでもない。  こうして四年の間に、原稿は十一回まで書き直したうえで、板下《はんした》にわたすまでとなり、ついに『解体新書』の翻訳の仕事はできあがったのである。「解体」とは、それまで「腑分《ふわけ》」といいふるしたことを、あたらしく訳したのである。  このように、この学問は江戸で創始され、なかまでだれいうとなく「蘭学」という新しい名ができて、やがては日本全国にとおる名になった。  これが、蘭学が今日のようにさかんになる初めであったのである。いまから考えれば、前にも述べたように、これまで二百年このかた、あちらの外科の法は伝わっていたのであるが、あちらの医学の本を直接に訳すということは、まったくなかったのである。しかもこの時のはじめの事業が、ふしぎにも、およそ医学のいちばんの「もとい」であるからだの内部構造の本の翻訳によって始まったのは、別に計画的にやったわけではないけれども、実に天の心というべきであろう。 [#改ページ]  二十二 『解体新書』のできるまで…同志の人々  過去をかえりみると、まだ『解体新書』ができあがらない前のことである。このようにはげんで、二、三年もたち、ようやくわけがわかるようになるにつれ、しだいにサトウキビをかみしめるように、そのあまみが出てきて、これで、長い間の誤りもわかり、そのすじみちがたしかに通るようになることが楽しくて、会合の日は、前の日から夜の明けるのを待ちかねて、まるで女や子供が祭を見に行くようなここちがしたものである。  さて、江戸は風俗がはででうわついたところだから、ほかの人もこれを聞き伝え、ただわけもなく雷同《らいどう》して、なかまにはいってきたものもあった。その当時の人々を思い出すと、この事業をとげた人も、とげなかった人も、今はなくなった人がずいぶん多い。 嶺春泰《みねしゅんたい》、烏山松円《からすやましょうえん》などは、ずいぶん熱心であったが、いまはもうなくなった。なかまの淳庵なども、『新書』が出版になったあとではあったが、五十にならないうちに、早くなくなった。  そのころゆききした人で、今日まで生き残っているのは、わたしよりもずっと年下であるが、弘前《ひろさき》の医官|桐山正哲《きりやましょうてつ》までである。  またそのころ、この事業の着実なのを知っているものは別であるが、まったく知らないもののなかにも、その完成を大いに疑うものも多かった。また、集まって来たもののうちには、その仕事がはかばかしく進まないうえ、とりとめなくめんどうなので、ついに精力がつきてしまい、また「きょうの暮し」に追われる人は、その効果が見えないのにあきて、あるいはしかたなく、中途でやめるやからも多かった。また熱心だった人で、病気がちのため仕事が完成しないうちに、早く死んだものもたくさんあった。 [#改ページ]  二十三 同志の人々…前野良沢…中川淳庵…桂川甫周…わたしの意図  なかまの人々が毎日集まったことは、前に述べたとおりであるが、おのおの、その志すところはちがっていた。これは人情である。  たとえば、まず第一にわれわれのなかまの主である良沢は、特別な才能の人であるから、この学を一生の業と考え、オランダ語にことごとく通じて、その力で西洋の事情を知り、あちらの書物ならば何でも読めるようになりたいという大きな望みであるから、その目当てとするところは『康煕字典《こうきじてん》』などのような『ウォールデンブック』(woordenboek)(字引)を了解しようというので、深くそのことに心がけていた。それゆえ世間のうすっぺらな人とは、とかく交わることをきらった。  この蘭学という学問のひらける天の助けのひとつといっていいのは、この良沢という人は、生まれつき病気がちだといって、このころから、いつも門をしめて、外へも出ず、またむやみに人とも交わらず、ただこの仕事を楽しみに、日をくらしていた。  殿様の昌鹿《まさか》公は、良沢の心持ちをよく知っておられ、かれはもともと変人であるといって、別に深くおとがめにもならなかった。しかし良沢があまり本業をなまけがちであったので、これを殿様に告げた人もあった。殿様は、毎日の治療をつとめるのもつとめであるが、その仕事のためを思って、ついには天下後世の人々に有益なことをしようとするのも、とりもなおさずその仕事をつとめるものである。かれは何か欲するところがあるようであるから、かれの好きなようにさせておくがよいといわれて、そのままにしておかれた。  そのころ殿様はボイセンという人の『プラクテーキ』などという内科書を買い求められ、その紙のはしに印章を押されたうえで、良沢に与えられたこともあった。良沢は、前は、その号を「楽山」と呼んだが、年をとってから、みずから「蘭化」と称した。これはむかし殿様からたまわった名だということである。殿様がつねに、良沢はオランダ人(和蘭人)の化け物だとたわむれにいわれたのから出ている。  このように殿様のお気に入りであったので、良沢は心のままにその学の修業ができたわけである。  前に述べたように、うわついたやからで雷同して事に当たったものも多いが、創業の仕事のまわり遠いのにあきて、やめてしまったものも少なくなかったのに、この先生は生涯一日のごとく、どっかりと動かなかったからこそ、そのなかには、今のようにその業を完成したものがあるのだと思われるのである。これはまったく、この蘭学がひらける機会にちょうどぶつかったからであろう。  中川淳庵は、かねてから博物の学を好んでいたから、なんとかしてこの蘭学を勉強して、海外の博物を研究したいと思っていた。そのほかのめずらしい器《うつわ》や精巧な技術が好きで、自分で工夫して、新しく作ったものも少なくない。『和蘭局方《オランダきょくほう》』を訳しかけたが、完成しないうちに、天明の初めに、膈症《かくしょう》でなくなった。  最初から会合に加わられた桂川甫周君は、性質が敏で、群にぬきんでた才の人であったから、あちらの文章・字句を了解されることも、なにかにつけ人よりはすみやかで、まだ若かったけれども、なかまでは末たのもしいとほめていた。もっともその家は代々オランダ流外科の専門の官医であるうえ、父君の甫三君は、青木先生から「アベセ」二十五字をはじめ、わずかではあるがオランダ語などもおそわって知っていられたのを、聞き覚えて、少しはその下地もあったためであろう。別に、これという特別の目当てなどもあるようにみえないが、前にもいったような家がらであるから、ただなんとなくこれが好きで、年は若いし根気は強いし、あきる様子もなく、会合のたびごとにおこたりなく出席せられた。  わたしなどは、こういう人たちとは、大いにちがっていた。初めて腑分《ふわけ》を見、オランダの解剖図と照らし合わせて、シナの書物の説くところと非常なちがいがあることにおどろき、なんとかしてこのことだけでも早くはっきりさせて、治療の用に役立たせたく、また世の医者がいろいろな術の発明の役にも立つようにしたいという志だけであったから、この本一冊をどうかして一日も早くまとまったものにしたいと心がけ、この一冊の訳さえ完成すれば、望みは達したようなものだと心に決めてやり始めたのであって、あちらのことばを深く覚えて、ほかのことまでする望みはなかったのである。  五色の糸の乱れたのは、みな美しいものだが、わたしはそのなかの赤とか黄とかの一色を決め、あとの色の糸はみな切り捨てる決心で思い立ったのである。  そのとき考えたことだが、応神天皇《おうじんてんのう》の御時、百済《くだら》の王仁《わに》が初めて漢字を伝え、書物を持って渡ってきてから、代々の天皇は、学生をシナへつかわされ、あちらの書物を学ばせるようにせられ、数百年後の今日にいたって初めて、漢人にもはずかしくない漢学ができるほどになったのである。いま初めて唱えだしたこの事業が、どうしてにわかに整って完成する道理があろう。ただ人体の構造というたいせつなことが、シナの書に書いてあるところとちがっていることを世に示し、なんとかしてその大体を知らせたく思ったまでのことで、ほかに望むところはない。  こう決心して、さっきもいったように、一日会合して解したところを、その夜宿へ帰ってすぐ翻訳し、書きしるして、ためていったのである。  なかまの人々は、わたしがせっかちなのをときどき笑うので、わたしは答えたものである。  およそ丈夫《じょうぶ》は草木とともにくちてしまうものではない。あなたがたはからだも健《すこ》やかで、年も若いが、わたしは病気がちで、年もとっている。ひょっとすると、この道が完成する時期にはめぐり会えないだろう。人の生死はあらかじめ定めがたいものである。「はじめに発するものは人を制し、おくれて発するものは人に制せられる」ということがある。それだから、わたしは急ぐのだ。諸君が成功される日は、わたしは地下の人となって、草葉のかげにいて、拝見いたそうと……。  それで桂川君などは、大いに笑って、あとになって、わたしにあだ名をつけて、「草葉のかげ」と呼ばれたものである。こんなことで年月はあわただしく過ぎて、とかくしている間に三年四年の月日がたち、だんだん世の人も聞き伝えて、たずねてくる人もあるようになったので、西洋の説くところの臓器・血管・神経・骨格・関節の様子など、すでにわかったところをもとにして、そのほんとうのありさまを、おおよそは説明できるほどになった。 [#改ページ]  二十四 建部清庵とわたし…蘭学問答…和蘭《オランダ》医事問答 『解体新書』がまだ出版されない前のことであった。奥州の一ノ関の医官の建部清庵《たてべせいあん》(由正《よしまさ》)という人が、はるかにわたしの名を聞き伝えて、自分が日常しるしておいた疑問を、わたしに書いてよこしたことがあった。書いてあることは、わが医業について感服することが多かった。それまでは、たがいに知らぬ人なのに、わたしとすっかり志の同じ人である。  そのなかに、こういうことが書いてあった。これまでのオランダ流の外科というのが、かたかな書きの伝受書だけにたよってこの術の基本としているのは、まことに残念なことである。わが国にも教養のある人が出て、むかしシナで仏教の経典を翻訳したように、オランダの本も日本語に翻訳したならば、本格的なオランダの医術が完成するであろうと。  これは清庵が、その時より二十年余りも前から絶えず心にかけていたことであったという。  その見識は実に感服して余りあるものである。わたしは、はからずもかかる高い見識の人に会ったことを喜び、われわれの知己は、実に千載《せんざい》の一奇遇であると返事をしたことであった。それからあとは、手紙を絶えず往復し、それがきっかけでいろいろのこともあった。この手紙は、門人が書き集めて、「蘭学問答」という名をつけて保存してあったが、後に門下生たちによって出版された(寛政七年・一七九五)。 『和蘭医事問答《オランダいじもんどう》』というのが、それである。 [#改ページ]  二十五 わたしと翻訳…その心がまえ  わたしはもともと大ざっぱで、学問も浅いから、オランダの学説をかなり翻訳しても、人に早く理解してもらえて、益になるようにする力がない。そうかといって、人にまかせては、自分の本意も通じにくいので、しかたなく、つたないのをかえりみずに、自分で書きつづったのである。  なかには、ここは細かな意味があるにちがいないと思われるところでも、わからないところは、大ざっばでいけないと知りながら、無理に訳すことをしないで、ただ意味の通じたところだけを書いておいた。  たとえば、江戸から京都へ上ろうと思えば、まず東海道と東山道との二つの道のあることを知ったうえで、西へ西へと行けば、しまいには京都に着くのだというところが、いちばんたいせつである。そのつもりで、そのすじみちを教えればいいのだと思ったので、そのあらましだけを唱えだしたのである。そしてこれを手はじめにし、一般の医者のために翻訳の仕事を初めたのである。  もとよりわたしは、仏教僧の梵語《ぼんご》の教典の翻訳の法は知らない。ことにオランダの本の翻訳ということは、これまでになかったことなのであるから、最初から細かいことがわかるはずがない。ただ、医者たるものは、第一に臓器の構造、その本来の働きを知らないではすまされない。どうか医者がみなその真実をわきまえて、たがいに治療の助けになるようにしたいというのが、その本意であったのである。  こういう志であったから、この翻訳を急ぎ、早くその大すじをだれにもわかりやすくし、医者がこれまでに覚えている医学の体系と比べて、すみやかにさとることができるようにしてあげることを第一とした。だから、なるべくシナ人が使っている古い名を用いて全体を訳したかったのであるが、こちらでつけている名と、あちらで呼んでいるものとはちがっているものが多いので、こうと決めてしまうことができなくて、ずいぶん迷った。  しかし、いろいろ考え合わせれば、なんといっても、この仕事はわれわれが最初になることなのだから、なんでも「人にわかりやすく」ということを目当てとして決めていく方針を立てて、あるいは「翻訳」し、あるいは「対訳」し、あるいは「直訳」、「義訳」というふうに、さまざまにくふうし、ああでもない、こうでもないといろいろと改め、昼も夜も自分がかかりっきりにかかって、さきにもいったように、原稿は十一回、年は四年いっぱいもかかって、ようやくその業を完成したのである。もっともそのころは、オランダの風俗・習慣の細かなことははっきりわかるはずがない。今のように予想以上にひらけてしまってから見る人は、『新書』は誤解ばかりだというであろう。しかし、ものを初めてやりだすときには、あとの「そしり」を恐れるようなつまらない心がけでは、くわだてごとはできないものである。われわれは、どこまでも、大体わかったというところを訳したまでのことである。梵語からの漢訳も、『四十二章経』の翻訳から初まって、だんだんと発展して、いまの『一切経《いっさいきょう》』ができるまでになったのである。こういうふうにだんだん発展するというのが、わたしのそのころからの望みであって、そうあってほしいと期待したところである。  この世に良沢というような人がなければ、この蘭学の道はひらけなかったであろう。そしてまた、わたしのような、大ざっぱな人間がなければ、この道はこんなにすみやかにひらけなかったであろう。これもまた、天の助けというものであろう。 [#改ページ]  二十六 『解体約図』…長崎通詞 >  さて、このように、『解体新書』の翻訳はひととおりはできたけれども、そのころはオランダの説というものを、少しでも聞いたり、聞いて知っているものは、まったくなかったので、世におおやけにしたあとで、シナの説ばかりを主張する人が、そのよしあしもわからずに、これを異端の説であるとおどろきあやしみ、かえりみる人もないであろうと思ったので、まず『解体約図』というものを出版して世に示した。これはいわば「ひきふだ」(宣伝ビラ)と同じようなものであった。  この業が江戸で唱え始められてから二、三年も過ぎたころ、毎年拝礼に江戸に来るオランダ人の一行の便りによって長崎にも伝わって、蘭学というものが江戸で大いにひらけたことに対して、通詞の人たちは反感を持っていたということである。  いかにもそうであろう。そのころまでは、かれらは通訳をするだけのことで、書物を読んで翻訳をするというようなこともなかった時代で、たとえは「ひやめし」を「さむめし」といい、「一部、一節」とも訳すべき「エーン・デール」(een deel)という語を「一のわかれ、二のわかれ」と和訳して、それで通じて、ことがすんでいたというようなありさまであったようである。もちろん医学や人体の構造のことなどは、だれひとり知る人がないはずである。  ある通詞がこの『解体約図』を見て、「ゲール」というものはからだ中にはない、「ガル」の誤りであろう。「ガル」は「胆」であるといって、いぶかったということである。それはそれとして、わたしたちが関東で創業の挙があったので、その本家たる長崎の通詞たちの気持ちも大いにひきたてられたことと思われる。 [#改ページ]  二十七 『解体新書』の出版 『解体約図』がすでにできあがり、「本篇」である『解体新書』も出版になったが、前にもいったように、『紅毛談《おらんだばなし》』さえ絶版になったほどの時代であるから、西洋のことはかりそめにも唱えてならぬのか、それともオランダはその中でも特別なのか、はっきりしない。これなら、きっとよいのであろうと決めこんでしまうわけにもいかず、もしひそかに公にすれは、万一禁令を犯した罪を受けるかもしれない。  こればかりは、ずいぶん心配した。しかし横文字をそのままに出すわけではなく、読んでみればそのようすはわかることであって、わが医術の道をひらくためであるから、さしつかえないと自分で決め、ともかくも、翻訳を公にするということのさきがけをしようと、ひそかに覚悟して決断したことであった。  それにしても、これは最初のことであるから、どうか一部を、恐れ多いが冥加《みょうが》のためお上《かみ》へ献じたいと考えた。ところが幸い同人の桂川甫周君の父君の甫三氏は、前にもいったとおり、わたしの古くからの友であったから、この人(法眼《ほうげん》であった)に相談したところ、同氏の世話と推挙によって、御奥《おんおく》から非公式に献じた。このようにさしさわりなくすんだのは、ありがたいことであった。  また、わたしのいとこの吉村|辰碩《しんぜき》は、京都に住んでいたので、この人のすいせんで、ときの関白九条家と近衛准后内前公《このえじゅごううちさきこう》および広橋家へも一部ずつさしあげた。それによって三家からは、めでたい古歌を自らしたためてくだされたし、東坊城家《ひがしぼうじょうけ》からは七言絶句《しちごんぜっく》の詩を作って、くださった。それから、ときの御老中《ごろうじゅう》のかたがたへも同じく一部ずつ進呈した。どこでもなんのさわりもなくすんだ。これでようやく安心したことであった。これがオランダの翻訳書がおおやけになった初めである。 [#改ページ]  二十八 蘭学の隆盛…大槻玄沢  わたしの初めの予想では、この蘭学が今のようにさかんになり、こうまでひらけるとは思いもよらぬことであった。これは、わたしが不才で先見の明がとぼしかったためであろう。今になって考えてみると、漢学は文句をかざった文であるから、そのひらけかたがおそく、蘭学は事実をありのままにことばでしるしたものであるので、わかりも早く、そのためにひらけかたが早かったのであろうか。それとも実は、漢学によって人の知識がひらけたあとに蘭学が出たので、こんなにすみやかなのであったのか、それはわからない。  それにしても、この業がひとりでにひらける気運に向かっていたというのであろうか。前にしるした建部氏は、わたしより二十才ばかりも年上の老人で、ふしぎと手紙の往復があったが、わたしの返事を見て、実にうれしくてたまらないといってよこされ、自分のおいぼれではどうにもならないというので、令息の亮策《りょうさく》をわたしの門人にし、つづいて自分の門人の大槻玄沢《おおつきげんたく》という男を江戸へ出してわたしの門に入れられた。  この玄沢という人の性質をみると、およそものを学ぶには、実地に当たってみなければ承知しないし、心に徹底しないことは、言うことも書くこともしない。気が、大きくて強いというところはないが、すべて、浮いたことを好まず、オランダの科学の勉強には生まれつきの才を持った人である。わたしはその人物と才とを愛して、つとめて指導し、あとでは直接に良沢《りょうたく》翁にも頼んで、蘭学を勉強させたところ、はたしていっしょうけんめいにはげみ、良沢もその人物を知って、この学のしんずいを伝えたので、ほどなく、オランダ書を解することの要領を覚えた。その間に、同僚の中川淳庵・桂川甫周・福知山侯などとも交わって、この業を研究した。また大いに奮発して、この上は長崎へ行って、直接にオランダ通詞に従って学びもし、勉強もしたいという相談をもちかけたので、わたしも良沢も喜んで許し、おまえは年も若いのだから行っておいで。大いにつとめるがよい。それをすませば専門の業もますます進むであろうとはげました。  それで玄沢もいよいよ遊学の決心をした。けれども貧しい書生のことであるから、自分の力ではどうにもならない。わたしはかれの志に感じて、何とか力を添えてやろうと思ったが、わたしもそのころはくらしむきが楽でなく、思うようにもならないので、自分の力でおよぶだけのことをしてやり、かつ御同学である福知山侯にもひとかたならぬお世話をいただいた。玄沢はやがて長崎に行き、本木栄之進という通詞の家に寄宿して教えを受け、いろいろ熱心に修行して江戸に帰った。その後は江戸に永住する人となることができた。  さて玄沢はかつて自分がまとめておいた『蘭学階梯《らんがくかいてい》』という本があったのを、江戸に帰ってから出版し、同志に示した。この本が出てから、世に志あるものは、これを見て新たに発奮し、蘭学に志すものが多くなった。 こういう人が出てきて、このような本が出ることになったのも、わたしの本志を天が助けてくださったことのひとつかと思ったのであった。 [#改ページ]  二十九 荒井庄十郎  このほかにわたしの門に出入りしたもののうち、この蘭学を勉強し始めたものは多かったけれども、あるいは久しく江戸にとどまっていることができなかったり、あるいは官職につき、あるいはくらしむきに追われ、あるいは病気、あるいは早死などと、みなはかばかしくことをとげたものはなかった。しかしわたしがこのことを思いたった後、その支派・分流が生じたことは少なくなかった。  安永七、八年のころ、長崎から荒井庄十郎《あらいしょうじゅうろう》という男が平賀源内のところに来た。西善三郎のもとの養子で、政九郎といい、通詞の仕事をやっていた人であった。わたしたちが蘭学を起こした最初のころであったから、かれをわたしの宅へ招き、淳庵などといっしょに「サーメンスプラーカ」(会話)を習ったこともあった。  源内の死んだ後、桂川家に寄食して、その業を助け、また福知山侯へも出入りして、侯の地理学の仕事のおてつだいもした。侯はもっぱら地理学を好まれ、『泰西図説《たいせいずせつ》』などの訳編がある。  庄十郎は後にほかの家にはいって森平右衛門と改名した。この人も江戸にいて、少しはなかまを指導したであろう。今はなき人となった。 [#改ページ]  三十  宇田川玄随  津山侯の藩医に、宇田川玄随《うだがわげんずい》という人がある。元来漢学が深く、ものしりで、ものおぼえのいい人である。蘭学に志して、玄沢についてオランダ書を習い、玄沢の紹介でわたしと淳庵とも往来し、桂川君、良沢とも交際していた。  玄随は後に、もと長崎の通詞で、白河侯の家来になった石井恒右衛門という人などにも出入りして、オランダ語のかずかずをも習ったが、元来が秀才で根気のいい人であるから、勉強が大いに進んで一書を訳し、『内科撰要《ないかせんよう》』という十八巻の本を著わした。簡単な本ではあるが、わが国の内科書の翻訳の初めである。おしいことに四十三才でなくなった。この『内科撰要』は、この人がなくなったあとで、ようやく全部出版になった。 [#改ページ]  三十一 小石元俊  京都に小石元俊《こいしげんしゅん》という学者がある。永富独嘯庵《ながとみどくしょうあん》の門人で、医学のことにいたって熱心な人である。初めから、知り合った人ではなかったが、かれは『解体新書』を読んで古い説とちがっているところに疑いをいだき、自らたびたび解剖して、『新書』が真実であることに感心し、それ以来深く『新書』の出たことを喜んで、わたしに手紙をよこし、まだ自分でわからない疑問をたずねてきた。  天明五年(一七八五年)の秋、わたしは殿様のお供で、お国まで行った帰り道に、京都に滞在した。そのとき元俊は、日夜おとずれてきて質問した。その後、江戸へ遊学して、玄沢の宅を中心に一年近くおり、蘭学のことでなかまの人たちとたびたび討論したものである。蘭学としては勉強しなかったが、京都へ帰ってからは、塾において、出入りの生徒に『解体新書』をいつも講じ、その堅実な体系を示したということである。これが関西の人々を啓発したひとつの原因である。 [#改ページ]  三十二 橋本宗吉  大阪に橋本宗吉《はしもとそうきち》という人がある。傘屋の紋を書く仕事をして、老いた親を養い、くらしをたてていたそうである。学問はないが、生まれつき奇才があるので、土地の金持ちの商人たちがみたてて力をそえ、江戸へ出してやって玄沢の門に入れた。  わずかの滞在の間に精を出してその大体を学び、大阪に帰ってからも自分で勉強して、業が大いに進み、後には医者となって、ますます蘭学を唱え、門人も多く、翻訳もし、五畿・七道・山陽・南海の諸道の人を指導して、今もいよいよさかんだと聞いた。江戸へ来たのは寛政の初めのことである。大阪へ帰った初めのうちは、さっきいった小石元俊もかれの志を助けて、業をはげましたということである。 [#改ページ]  三十三 山村才助  土浦《つちうら》侯の藩士に山村才助《やまむらさいすけ》という奇人がある。その叔父の市川小左衛門の紹介で、わたしのところへ蘭学の勉強に来た。わたしはそのころはもう年をとっていて、蘭学のことはすべて玄沢にまかせてあったから、玄沢がかれにオランダ文字二十五字から教えてやった。  生まれつき学才が備わっていて、ことに地理学を好み、もっぱらその方面を勉強した。新井白石先生の『采覧異言《さいらんいげん》』を増訳重訂して、十三巻の書とした。この本は栗山《りつざん》先生の推挙でお上《かみ》へも献呈した。そのほかに翻訳の内命も受けていたが、完成しないうちに早死した。おしいことであった。万国地理の諸説はシナの人もまだ知らないところのものが多い。それというのも、蘭学がこの方面にまで延びたおかげである。 [#改ページ]  三十四 石井恒右衛門  石井|恒右衛門《こうえもん》は、もと長崎の通詞で馬田清吉《ばだせいきち》という名であったが、その家業を他人にゆずって、江戸へきて、天明のなかごろ白河侯の家来となった。侯はそのもとの職業を知られ、ドドネウスの本草を和訳させ、十数巻の訳ができたが、完成しないうちにこの人もなくなった。  稲村三伯《いなむらさんぱく》が手をつけた『ハルマ』の辞書は、まったく石井氏の力によるものである。この辞書は近ごろの初学者の人々には参考書として益があるということである。この石井氏は、もとの通詞の職業で官職につくつもりで江戸へ来たのではないが、このようにさかんな最中に来たことであるので、もっぱらこの道の助けとなった。 [#改ページ]  三十五 桂川甫周  桂川家のことは前にもいったとおりである。甫周君は抜群の俊才であるから、およそオランダのことといえば大体は知っていて、その名声も四方に広く、それにこの事業の趣旨はお上でもごぞんじであったので、ときどき西洋のことは和訳の御用も命じられたそうである。その原稿は桂川家にあるであろう。『和蘭薬選《オランダやくせん》』『海上備要方』などという著書もあると聞いたが、完成した本は出ていない。年は六十にならないでなくなられた。 [#改ページ]  三十六 稲村三伯(海上随鴎)…オランダ辞書(江戸ハルマ)の完成  因州侯の医師に稲村三伯《いなむらさんぱく》という人がある。国にいて『蘭学階梯』を見て発奮し、江戸に来て玄沢の門にはいり、蘭学を学んだ。後にハルマという人の著わした辞書を石井恒右衛門について訳をうけ、十三巻という大きなオランダ辞書、いわゆる『江戸ハルマ』を作った。  初め玄沢が、かれを石井へ紹介し、原書も貸し与えたという。その初稿は宇田川玄随・岡田|甫説《ほせつ》が力を添え、ときどき石井のところへ往来して完成したそうである。訂正のときには、ほかに力を添えたものもあったと聞いた。 後にわけがあって殿様のもとを辞して、下総《しもふさ》の国、海上《うながみ》郡のあたりでぶらぶらしており、あとで名を随鴎《ずいおう》と改め、海上随鴎と名乗って、京都にいて、もっぱら蘭学を唱えたという。いまは、この人も故人になったと聞いた。  けだし辞書を作ることをくわだてたのは、初学者のためにひとつのてがらということができよう。 [#改ページ]  三十七 宇田川玄真  今の宇田川玄真《うだがわげんしん》は、初めは伊勢の安岡《やすおか》という名で、京都生まれの人である。江戸へ出て岡田という名をつぎ、上に述べた宇田川玄随の漢学の弟子であったという。ところが玄随は、玄真の才が非常にしっかりしているのを知って、蘭学に導こうと考え、よく玄沢にもこの人のうわさをしたことがあったそうである。  ところが、玄随が殿様のお供をしてお国へ行ったころであろうか、玄真は養家を辞して、本姓の安岡氏に復したとき、先生の玄随のいいつけで初めて玄沢のところへ来て、蘭学を学びたいと願った。  オランダ文字の書き方までは玄随に習っていたらしかったので、オランダ語の訳語の小さな本を授けて写させ、またあちらの局方の本を読ませた。かれは日々やって来て、ついには玄沢の家に寄食させてほしいと頼んだが、そのころはさしつかえがあって、しばらく嶺春泰のところに頼んだ。このころ春泰は病気で、それもだんだん重くなり、ついになくなった。  そこで玄沢は、桂川甫周君に頼んで同君のもとに預け、この男は蘭学に熱心であるが、身を寄せるところがなくて困っている、これをお世話くだされば、ときどきは君の業をお助けすることもあろうといった。そこで甫周君はすぐに引き受けたので、玄真はこれから桂川家の塾にはいることになった。それでも玄真は、玄沢のところにも往来して、訳法を問うことがしばしばであった。  もともとこの男はオランダの学説の実際にすっかりほれこんで、自分はほかに望むところはない、思うがままにこの業の修行ができるならばどこへでも寄宿したいという希望である。それだから桂川家に頼んだのである。ところがそのころ桂川家は官の仕事と医業がいそがしくて、玄真の本来の望みを達することができないといって、たびたび玄沢にうったえた。ある日玄沢はこのことをわたしに語った。  わたしは、そのころはしだいに専門の医術の方がいそがしくなり、少しもひまがなく、本来の蘭学の仕事をつとめるいとまのない身となっていた。しかし、もちろんわたしはこの道に志を深くひそめていたので、いよいよもってその道をひらきたい望みを断ち切ることができず、『解体新書』の完成のあとでも、かのヘイステルの外科書の翻訳も手がけ、それの「金創」「瘡瘍」の諸編をはじめ、数巻分の原稿はできていたが、そのころたびたび病気にかかったものであるから、まわりの人もいさめて、これは蘭学をあまり勉強なさるたたりであるから、少しおやめになるがよいという。玄沢なども、ひたすらのんきに老後の養生をなさるがよい、仕事の方は、ふつつかではありますが、わたしが代わっていたしましょうといってくれる。  わたしもしだいに年をとり老いぼれていくし、長く大事業を完成する根気もない。今でこそ中絶しているが、元来の志やみがたく、数年の間、見当たったオランダ書は大部のものでも、自分の資力のおよぶ限りのものは費用をかまわずに買い求めて、かなりに蔵書も集まっている。この蘭学を専門にしようというものは、志があっても、書物がとぼしければ事業は完成しないと思い、自分で読むひまはなくても、子弟はもとより志ある人に貸してやっても、この道のひらけるための助けになろうと思い、数十巻を蔵していた。  また同じことなら、年が若く、この道に志のあつい人を見つけて、別に一女と結婚させて養子とし、この業をとげさせて、わが医道のまだひらけないところ、足りないところをひらいて補い、人々の病苦を広く救いたいものと常に心にかけていたおりであるから、わたしは、さいわいに玄真のあることを喜んで、これを招いてその心持ちを聞いたところ、そのいうところは玄沢がわたしにいったこととちがっていない。  そこで玄真をわたしの家に迎えて、父子のちぎりを結んだ。玄真もその希望がかなったので、深く喜び、わたしの家の蔵書を自由に利用して日夜おこたらず学び、勉強はひととおりのことでなく、ややもすれば夜どおしをすることもあった。  その精力がこのようであったから進歩も早く、その実績はむかしに倍した。わたしの喜びも察していただけると思う。  そんなふうではあったが、そのころ玄真は年も若かったから、よく勉強はするが、また気の移りやすい、血気のさかんな最中で、身持ちがいたってだらしなくなった。わたしもたびたび忠告したけれども、いよいよつのってやまないので、おしむべき才とは知りつつも、捨てておけばどんなことをしでかして殿様の御名を汚すことになるかもしれないと思い、老人のわたしは、毎日心配でたまらず、やむをえず離縁して、長いこと絶交したのである。  そのために、なかまの連中も交際せず、かれも頼み少ない身となってたいそう困っていたが、しかし好むところの業はやめなかった。それで稲村というような人たちがひそかに金をみついだということである。そのさい、稲村などはわたしの子の伯元に内々相談して、わたしの蔵書のうち内科書を一、二部貸して訳させたりなどして、困っているのを助けたということをあとで聞いた。  そのうちに玄真も反省して、志を改めたと聞いた。そのころ稲村がくわだてた『ハルマ辞書』は玄真がてつだいをして、その完成を助けたそうである。  二、三年すぎて、宇田川玄随が病気で死んだ。あとつぎの子がないので、養子を広く求めた。そこで稲村氏がなかだちして、玄真に宇田川の家をつがせた。玄随とは前にも述べたとおりの縁もあり、当人のなくなったあとではあったが、いまはなき父となった人の志をついで、自分も志すところの本意を達したものというべきである。  玄真はそれからますます専心に勉強して、たくさんの訳書も出し、『医範提綱《いはんていこう》』というものを出版し、すでに一家をなした。このように玄真は、その行ないも改まり、その志もしっかりたったうえで、宇田川姓もついだことでもあるから、伯元や玄沢がわたしとの交際を許してあげてくださいというので、わたしもそうなった上は、長く、にくみ遠ざけるべきでないと出入りを許し、もとのようにあい親しんだ。玄真はわたしに仕えること、先生か父のようであったから、わたしもかれをわが子のように思い、むかしのあいだがらにかえった。 [#改ページ]  三十八 大槻玄沢・宇田川玄真…天文台訳官となる  大槻玄沢はその名声がすでにあがっていたが、近ごろ(文化八年・一八一一年)幕府から新たに、御所蔵のオランダ書の翻訳の命をこうむるにいたった。むかしわたしたちがかりそめにくわだてた事業であったのに、いまわたしの在世中にこのような名誉ある厳命までこうむるにいたったことは、まことにありがたく、わたしの年来の願いがかなったというものである。  なんとかして人々を広く救いたいと思い立って、とりつきにくいこのことに苦心した創業の功は、ついにむなしくなかった。つづいて玄真も同様の命をこうむって、ともにこの仕事に従うことになった。  まことに感激にたえない。それはほかでもない、かれらはわたしが指導した弟子であって、このさかんなできごとにあやかれる老人の満足は、これ以上に何を加えよう。  わたしがこの老人になるまでの年齢をたまわった天からの禄もありがたく、あのころ「草葉のかげ」とあだ名されたわが身を、いまもなお聖代にながらえさせて、その完成のすがたを見せてくださったことは、かぎりなきお恵み、ありがたいかぎりである。 [#改ページ]  三十九 出藍《しゅつらん》の人々  このほか玄沢・玄随・玄真の門下で、出藍《しゅつらん》のほまれある人々もあるそうだが、これはわたしの子の子の孫彦であってくわしくは知らない。きっと京都・江戸・大阪や、諸侯の国々に散らばっている人が多くあろう。 [#改ページ]  四十 長崎の通詞の人たち…志築忠次郎…馬場佐十郎  むかし、長崎で西善三郎は『マーリン』の辞書を全部翻訳しようとくわだてたそうであるが、すこし手をつけただけで完成しなかったと聞いた。明和、安永のころであったか、本木栄之進という人に、一、二の天文暦説の訳書があるということである。そのほかは聞いていない。この人の弟子に志築忠次郎《しつきちゅうじろう》という通詞があった。生まれつき病気がちで、早くその職をやめて他人にゆずり、本姓の中野氏にもどってひきこもり、病《やまい》だからといって他人との交際を断って、ひとり学んでオランダの本に読みふけり、多くの本に目を通して、文学の書を研究したということである。  文化の初めのころ、吉雄六次郎・馬場千之助などという人たちも、その門にはいってオランダ語の文法の要領をおそわったということである。この千之助は、いまは佐十郎(真由)と改名し、先年臨時の御用で江戸に召し寄せられたが、それから数年江戸に滞在し、当時御家人に召し出され、ついに江戸に住みついて、もっぱらオランダ語翻訳の御用をつとめ、この学を好むものがみなその読法を教えられることとなった。わたしの子弟孫子もその教えを受けていることであるから、おのおのそのしんずいをつかんで、本格的な訳も完成するであろう。  さきの忠次郎という人は、わが国にオランダ通詞という名ができてから、いちばんよくできた人であろうということである。もっともこの人が引退しないで職にいたならば、かえってこうはならなかったかもしれない。あるいは、江戸でわれわれなかまが、先生もなしにあちらの本を訳することを始めたので、この人もこれに発奮した結果かとも思われる。これまた、平和の日が久しく続いたため、発達するのに適した気運といってよかろう。 [#改ページ]  四十一 感銘  一滴の油は、これを広い池の水に落とすと、だんだんひろがって池全体におよぶという。ちょうどそのように、そのはじめ、前野良沢・中川淳庵、そしてわたしの三人が申し合わせて、かりそめに思いついたことがもとで、五十年に近い年月のたった今日、この学が全国におよび、ここかしこと四方にひろがり、翻訳の本も毎年出ると聞いている。これは一ぴきの犬が実をほえると、万犬が虚をほえるというたぐいで、そのなかには良いものも悪いものもあろうが、それはしばらく問題にすまい。こんなに長生きすればこそ、今のように発展したありさまを聞くことができるのであると、喜びもし、おどろきもしている。  いまこの業を主張する人のうちには、これまでのいろいろの事情の聞き伝え、語り伝えを誤って言いふらすものが多いと思うから、前後はまちまちであるが、覚えているむかしばなしを、このように書きすてたのである。 [#改ページ]  四十二 むすび  かえすがえすもわたしはうれしい。この道がひらければ、百年・千年後の医者は本式の医術を覚えて人の命を救うという、大きな益があるだろうと思うと、いてもたってもいられないほどうれしい。  もちろん、わたしがさいわいに寿命が長くて、この学のひらけはじめた最初から今日このようにさかんになるなりゆきを自分の目で見ることのできるのは、わが身に備わった幸いであるとばかりいってはならぬ。  考えてみると、実は国内の平和のおかげである。どんなに熱心な人があっても、世が戦争で乱れ、たたかいが行なわれているさなかに、どうしてこの仕事を始め、このさかんな発展をとげるいとまがあろうか。  おそれおおくも、ことし文化十二年|乙亥《きのとい》は二荒《ふたら》の山の大御神《おおみかみ》(家康公)の二百年の御神忌に当たらせられる。この御神《おんかみ》が天下を統一して太平にせられたその御恩が、かずならぬわたしたちにまで加わっているのであって、いたるところにあまねく神徳の日の光が照り輝いた御徳《おんとく》であると、おそれかしこんで、仰ぐもなお余りある御《おん》ことである。  わたしは、だんだん老いぼれてきたから、これからさき、こんな長いものを書くとも思われない。この世に生きているうちに書く絶筆のつもりで書きつづけた。  八十三才 九幸翁《きゅうこうおう》。 [#改ページ]  解説  この本文は、杉田玄白の『蘭学事始』を、わたしが現代の国語に訳したものである。玄白のこの名作がひろく読まれるには、現代語にうつすのが一番いいと考えて、これを出版したのは、昭和十六年であった。その後昭和二十五年、昭和三十四年と、さらに二度改訳した。この本文は、最後の好学社版(杉田玄白著・緒方富雄訳『蘭学事始』昭和三十四年十月発行)を収録したものである。好学社版の訳文の一部は、いくつかの中等学校用の国語教科書に採択されている。  なお玄白の原文は、わたしの校註で、岩波文庫におさめられている(杉田玄白著・緒方富雄校註『蘭学事始』)。  杉田玄白がこの蘭学発達の回想録を書いたのは、一八一五年(文化十二年四月)のことで、玄白の八十三才のときである。玄白がこれをおもいたったのは、その前年のことであったが、途中でおもい病気にかかり、その完成もどうかとあやぶまれたが、病気もよくなり、ようやくまとめあげたのである。しかし、これをもう一度見なおして、訂正したり清書したりする気力もなくなったので、この仕事を門人の大槻玄沢にまかせた。そこで玄沢は、玄白にききただしたり、はなしあったりして、とうとう完成し、『蘭東事始』という題をつけて、玄白にささげた。それが一八一五年(文化十二年)の四月であった。なぜこのような題をつけたかというと、「蘭学が東の国にやってきた起原」が書いてあるからであるという。このように、この回想録は、はじめ『蘭東事始』と名づけられたことはたしかであるが、別に『和蘭《おらんだ》事始』という題の写本もあり、また『蘭学事始』という名も見つかる。  ところで、今日これが『蘭学事始』として知られるようになったのは、一八六九年(明治二年)福沢諭吉の世話で、この題名ではじめて出版されたときからである。その定本は、明治の直前、神田孝平が湯島で見つけた写本で、その題は『和蘭事始』となっていた。それを出版のまぎわに蘭学事始とあらためたのである。その後たびたび活版で刊行されて、ようやく多くの人にしたしまれるようになった。  このようなわけで、明治よりまえには、ただわずかの、かぎられた人々が写本によって読んでいたくらいのことで、蘭学者のなかまでも、多くの人が読んだという形跡がない。したがって、その影響はよくつかめない。しかし、明治になってからの刊本のおかげで、この『蘭学事始』は、多くの人々を感動させずにおかぬ不滅の古典となった。私見をのべさせていただくならば、この特異な随想が若い中学生諸君にまで鑑賞されるようになったのには、わたしの、この現代語訳が大きな役をつとめたとおもう。 『蘭学事始』の大きな特色は、玄白ののべていることに、いちいち資料のうらづけがあるばかりでなく、その多くが現存していることである。蘭学事始をただ回想録としてあじわうのもいいが、このいちいちの資料についてさぐっていくならば、一層の興味を感ぜられることであろう。(緒方富雄)